言葉でスケッチ

沖 縄 と 私


鶴巻 繁

 昨年に続いて5月12日〜15日、沖縄に旅をして平和行進に参加してきました。私が沖縄を訪れるのは、1985年以来何度になるか数えきれません。その頃の私はまだ視力を失っていなかったので、美しい南国の海と空、デイゴやハイビスカスなどの亜熱帯の花々、がっしりと根を張り、台風にも負けない大きなガジュマルの木、色とりどりの海の生き物たちをおぼろげでしたが見ることができました。チャンプルー、沖縄そばに代表される沖縄ならではの料理、アワモリやオリオンビールといった酒もたくさん味わわせていただいて、私は沖縄が大好きになりました。いや、沖縄に夢中になりました。
 私は東北、福島県の出身で、子供の頃から南国沖縄には強い憧れを抱いていました。初めて沖縄を訪れた1985年、その憧れ、夢を果たして、私は幸せこの上なく、有頂天になってビールをあおり、ホテルのビーチで泳いでトイレの入口に額をしたたかにぶつけて出血したのを覚えています。
 当時の私は、1945年、沖縄で凄惨な地上戦が行われ、多くの犠牲者が出たことについては、あまり深く考えなかったことを正直に申し述べなければなりません。若かった私は、憧れの沖縄の旅を存分に楽しむことに熱中していました。
 しかし、繰り返し沖縄を訪れ、時々のマスコミの報道を見聞し、歴史を学び、現在の沖縄がなお過去の戦争の遺産である米軍基地の重圧に耐えて苦しんでいることがわかるにつれて、沖縄を思う心が変わってきました。その心の変化の由来には、37年来、友として付き合ってくれている沖縄に住む友人夫妻と、共に沖縄を旅してきた妻の存在も大きかったと思います。以下は沖縄戦と沖縄の戦後史についての私の考察でス。
沖縄戦と戦後沖縄がたどった歴史

 沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日、沖縄本島西海岸に展開した1500隻余の米海軍の艦船からの砲撃と、空母を飛び立ったおびただしい艦載機による爆撃で始まった。3月26日以降日々繰り返されていた猛烈な艦砲射撃、空母搭載機による爆撃と機銃掃射。3か月の戦闘で米軍が発射した砲弾は271万発を超えたという。この、3か月にわたって連日雨あられと撃ち込まれる砲弾・爆弾・銃弾を、毎年沖縄を襲う台風の暴風雨にたとえて「鉄の暴風」と呼ぶ。(沖縄タイムス社編『鉄の暴風-沖縄戦-』より)。
 3月26日から激しい砲爆撃を加えながら、米軍は4月1日、嘉手納(かでな)-読谷(よみたん)-名護(なご)に至る本島西海岸に上陸を開始した。このとき日本軍は、上陸してくる米軍に対して攻撃らしい攻撃をしなかったという。米軍はやすやすと兵士6万人はじめ、戦車、装甲車、砲その他の武器弾薬、トラック、食糧、医薬品、宿営用機材等を揚陸し、日本軍の北、中の2つの飛行場(現在の嘉手納基地)ほかを占領した。このときの日本軍の作戦は、硫黄島で栗林中将がとった上陸後に米軍を叩くという作戦に習ったのではないかと思われる。
 同じ時期、本島西沖の伊江島では、上陸しようとする米軍との戦闘で、残留していた島民・軍人合わせて5000人余のうち、4700余人が戦死したという。帝国日本軍は民間人・軍人の区別なく、女性、十代の子供まで容赦なく戦闘に駆り立てた。この戦争で亡くなった民間人の数は12万人余で、当時の沖縄本島の人口の4分の1に達したという。
 「生きて虜囚の辱を受くべからず」という戦陣訓の教えを叩き込まれ、連合軍を「鬼畜米英」と呼んで憎しみをあおり、米軍の捕慮になったら、暴行、凌辱を受けた果てに殺される、いざとなったら玉砕を、自決をと繰り返し刷り込まれた島民に、生き延びる道は閉ざされていた。3か月の戦いを通して、沖縄島民の多くが戦闘に駆り出され、多数の人々が投降することなく自殺の道を選んだことは、冷酷な軍国教育で人々を死に追いやった帝国日本、軍事政権の罪深さを物語っている。島のあちこちにあるガマと呼ばれる洞窟では、多くの人々が凄惨な自殺を企てている。慶良間諸島の渡嘉敷島、座間味島では、駐留していた軍の部隊長の指示によって数百人の島民が集団自決に追い込まれている(『鉄の暴風 沖縄戦』参照)。
 米軍は、日本語で書かれた大量の降伏勧告のビラを撒き、大型スピーカーで日本語で繰り返し降伏を呼びかけ、降伏の意を示す島民・軍人を急造の捕虜収容所に収容し、食糧、衣類、日用品を付与し、傷病者には医療を施し、負傷した日本人の中にはアメリカ本国に送られて治療を受けた人もあるという。これは大岡昇平等の小説にも書かれているが、米軍はおおむね捕虜を人として遇し、最低限度の生存を補償することに努めた。
 ただし、その米軍兵士も、そのときどきの作戦に拠り、あるいは感情や欲望にまかせて、一般住民と兵が入り混じって身を潜めている壕に対して投降勧告をした後、投降に応じない壕の人々を、火炎放射器で焼き殺し、ガス弾、手留弾を投げ込み、機関銃を乱射し、戦車で乗り上げて崩落させて、人々を殺害し、暴行、凌辱といった非人道的行為を重ねている。
 沖縄戦における日米双方の戦力の差は甚だしく、戦う前から勝敗は決していた。1931年の満州事変、1937年から始まる日中戦争と、中国大陸で果てしない戦争を続けてきた日本軍は、1941年12月8日の真珠湾攻撃をもって太平洋戦争に突入した。予め開戦準備を進めていた日本軍は当初は優勢に作戦を進められたが、情勢はわずか半年で逆転する。1942年6月のミッドウエー海戦、翌43年2月のガダルカナル島からの撤退に前後して連戦連敗を重ね、熟練した多数の兵士と、アメリカに比して格段に乏しい資源と生産力で製造した虎の子の飛行機、軍艦、輸送船舶、戦車、砲、その他の軍需物資を損耗し、ふんだんな補給力をもつ米軍との戦力差は広がるばかりだった。沖縄戦は、敗北の一途をたどった帝国日本が、日本本土と天皇制を核心とする国体の護持を目的に、少しでも有利に外交交渉を進め、和平の道を探る時間を稼ぐために沖縄を捨て石として強行された作戦であった。
 沖縄戦における日本の戦力は、陸軍8万6000人、海軍陸戦隊1万人、これに現地召集を受けた人々と十代の少年たち2万人を加えた11万人余が、寄せ集めの日本軍兵員数である。
 これに対して米軍は1500隻の艦船に総勢20万余、最終的には50万人ともいわれる兵員と豊富な飛行機、戦車、重火器、弾薬を投入していた。1945年時点で米連合軍は、ガダルカナルをはじめとするソロモン諸島。ジャワ、スマトラ、ニューギニアを含むインドネシア諸島、ルソン、ミンダナオを含むフィリピン諸島と、太平洋戦争開戦当初の失地を奪還しながら北上し、グアム、サイパンといった、帝国日本軍が絶対的防衛圏としてきた島々も制圧し、琉球諸島の制空権も制海権も完全に米軍が握っていた。
 ちなみに、大本営は戦艦大和を揮艦に最後の日本艦隊を沖縄に特攻出撃させたが、大和は、爆撃・雷撃機の攻撃を受けて45年4月7日、鹿児島県坊ノ岬沖でわずか2時間余の間に撃沈されている。このような明白な戦力の差を目の当たりにしつつ、沖縄駐留の第32軍も沖縄島民も、老若男女を問わず、我が命を守ることを許されない戦いを強いられたのである。
 私が沖縄に旅するごとに必ず訪れる所がある。ひめゆりの塔と平和の礎である。特にひめゆりの塔は初めて沖縄を訪れた1985年以来、妻とともにその都度訪れて花を捧げ、合掌して「また来ました」と独り語ちる。十年ほど前までは、学徒隊員として病院壕で実際に看護業務に従事し、その後奇跡的に生き延びることのできた女性たちが、体験の語りべとして訪れる私たちにさまざまな話を聞かせてくざさったが、2017年の今年、その方々にはお会いできなかった。昨年訪れた際はお一人だけ、訪れる人にお話をしてくださる方がおられた。歳月は、生き永らえた人々をも旧友たちのもとへいざなう。
 沖縄戦では多くの十代の少年少女たちが召集され、犠牲になった。鉄血勤皇隊、ひめゆり学徒隊、白梅学徒隊、沖縄護郷隊といった十代の少年少女によって編成された部隊がいかに悲惨な運命をたどったかは、残された記録に明らかである。
 ひめゆり学徒隊は、併設校であった県立第一高女と師範学校女子部の生徒から成り、形式上は志願となっているが、学生にこの志願を忌避することなどできようはずもなかった。ひめゆり学徒隊の少女たちは、当初は主に南風原野戦病院(はえばるやせんびょういん)の壕で傷病兵の看護介護に当たっていた。来る日も来る日も米軍の砲爆撃にさらされ、迫りくる死の恐怖におののきつつ、高温で湿気と悪臭が充満し、ノミ、シラミ、ウジ、ハエ、カが大量発生した地獄そのものの病院壕での看護業務に楽しかるべき青春の日々を捧げ、美しく身を飾ることも叶わぬまま友軍が助けに来てくれることのみを一途に祈っていたのである。敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出された。解散といわれても、戦場のただ中で行く当てのない少女たちにとっては、大変な衝撃だった。その結果、翌日の6月19日から約1週間の間に多数の犠牲者を出した(死亡者のうち実に80%がこの間に集中している)。最終的には教師・学徒240人のうち136名、ほかに学徒動員された91名が犠牲になっている。戦後、自決した少女を含め最大の犠牲者を出した伊原第三外科壕跡に慰霊塔である「ひめゆりの塔」が建立された。この壕では多くの傷病兵も亡くなっている。
 白梅学徒隊は沖縄第二高等女学校の生徒46名で編成され、南部にある八重瀬岳中腹に掘られた壕、第24師団第一野戦病院で看護業務に従事したが、6月4日米軍の猛攻を受けて解散となり、南部への逃避行中、22名が犠牲になっている。さらに沖縄戦に動員された女子学徒隊は、瑞泉学徒隊(県立首里高女)」「積徳学徒隊(私立積徳高女)」、「梯梧学徒隊(私立昭和高女)」「なごらん学徒隊(県立第三高女)」「宮古高女学徒隊(県立宮古高等女学校)」「八重山高女学徒隊(県立八重山高等女学校)」「八重農女子学徒隊(八重山農学校)。
 鉄血勤皇隊は、沖縄師範学校、県内各地の中学校、工業中学、農業中学生等で編成され、第32軍による防衛召集を受けて兵として任務についた。計1780人が召集され、890人が犠牲になり、実に召集された少年の半数が亡くなっている。
 1972年の返還後、沖縄県知事を二期勤めた大田昌秀さんは、当時沖縄師範学校生で召集を受け、鉄血勤皇隊の情報宣伝隊(千早隊)の兵として首里の司令部壕に配属されて任務に当たっていたという(岩波新書 大田昌秀著 『沖縄の心 沖縄戦と私』参照)。沖縄護郷隊は主に本島中北部の800〜1000人の少年が防衛召集され、162人が戦死している。
◇嘉数(かかず)高地・前田丘陵の戦い
 沖縄戦における浦添・前田丘陵の戦闘を「ありったけの地獄を1つにまとめた」という記述が米陸軍省の資料にあるという。沖縄各地での戦闘はそれほど凄惨なものだった。現在の那覇市北に隣接する宜野湾市に「嘉数(かかず)高台公園がある。この公園の展望台から、現在沖縄で繰り広げられている基地移転をめぐる闘いの一方の焦点になる米海兵隊普天間基地を一望できる。そしてこの公園の一隅に慰霊塔が建てられている。1945年4月8日〜24日まで、この嘉数地区で日本軍のみで6万400人、米軍が1万2000人の死傷者を出す、まさに血で血を洗う撃戦が繰り広げられた。戦闘機、戦車、砲等の重火器を大量投入するアメリカ軍に対して、日本軍もなけなしの戦車、砲、機関銃、銃剣で応戦し、切り込み隊による白兵戦、爆弾を背負っての決死の攻撃(肉迫戦)を挑んだが、はるかに戦力にまさる米軍は16日かけて嘉数高地を制圧した。
◇4月30日には日本の同盟国であったナチスドイツの独裁者ヒットラーが自殺し、5月8日、ドイツは連合国に無条件候伏している。仮にこの時点で帝国日本も降伏していれば、沖縄で5月末から6月23日にかけての軍民合わせて10万を超える死者は出さずに済んだし、広島、長崎の原爆も、中国大陸で繰り広げられた報復を企図した日本人の殺戮も、ソ連参戦による大量の捕虜もなくて済んだはずである。しかし帝国日本は、神州不滅を唱え、一億火の玉、一億玉砕といった狂気に満ちたスローガンを国民の心にすり込み、降伏はおろか、撤退も認めず、捕虜になることも許さず、ただただ天皇に命をささげて戦って死することを迫り続けたのである。
◇首里攻防戦
 名護・読谷・嘉手納に至る沖縄本島中部西岸に上陸した米軍は、随所に築かれた陣地からの激しい抵抗と悪天候に妨げられながら、実に一か月をかけて宜野湾の嘉数高地、浦添の前田丘陵、安里高地(あさとこうち 現在の那覇新都市公園付近)、那覇中心部の牧志(まきし)をはじめとする日本軍の守備陣を制圧し、首里城地下の32軍指令部への攻撃を開始する。
 那覇市西南部に位置する首里の丘にそびえる再建された現在の首里城の地下には広大な地下陣地が構築されていた。ここに、第32軍司令官の牛島満中将、長勇参謀長以下の幕僚、数千の部隊が陣取って攻め寄せる米軍に応戦した。上述の大田昌秀元沖縄県知事は、当時師範学校の学生であったが召集を受け、この32軍本部に配属され、詳細な記録を残している。
5月4日、5日、第32軍指令部は攻め寄せる米軍に総攻撃を企てるが、これは失敗に終わる。米軍は宜野湾攻防戦から1か月余をかけてジリジリと南に向けて進撃した。悪天候に阻まれたにしても、現在では車で20〜30分ほどの距離を制圧するのに1か月もかかったということからも、その戦闘がいかに激しく凄惨なものであったかがわかる。各陣地に立てこもった日本軍兵士の米戦車に対する爆弾を背負っての攻撃(肉迫戦)、切り込み隊による捨て身の白兵戦と激しい雨が米軍の進撃を阻んだ。この切り込み隊には、鉄血勤皇隊の十代の少年たちの多くが自ら志願し、駆り出されて戦死している。
 軍主力同士が正面からぶつかり合う戦闘はそれまでだった。5月25日、牛島司令官、長参謀長は首里司令部の南部島尻地区摩文仁(しまじりちくまぶに)への撤退を決め、第32軍は撤退を開始し、5月29日、日本軍首里司令部壕の丘に星条旗が立てられた。このときから、那覇周辺から南部にかけての地域に住んでいた沖縄島民の戦闘による犠牲者は激増する。那覇から南部島尻地区に住む人々にとっての真の地獄の始まりだった。
 大本営は本土防衛の捨て石として、沖縄で米軍の北上を阻止して時間を稼ごうとした。いくら時間を稼いでも、勝算のない戦いであることは大本営も十分承知していながら、すでに繰り返される空襲で東京が灰塵に帰していた4月1日、沖縄本島への米軍の上陸を許し、20万人もの死者を出す戦闘を強いた陸海軍・大本営の愚かさと無謀さ、罪深さは測りしれない。孫子の兵法に「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という有名な言葉がある。このときの日本軍は、最初から負けるとわかっていた戦いを、戦っても屍の山を築くことしかできないことを知りながら、天皇制を守るための和平工作を企図して、時間稼ぎのために沖縄の人々と兵士に命を投げ出して戦うことを強いたのである。
 沖縄戦で最も犠牲を強いられ、悲惨な目に遭ったのは島民である。軍国教育で精神主義を叩き込まれ、ろくな武器も持たぬまま、農作業用のナタやカマ、竹槍や石を持って、圧倒的な火力を有するアメリカ軍と戦い、絶え間ない艦砲射撃、爆撃、機銃掃射にさらされ、逃げまどい、壕から壕を渡り歩き、さまよい、砲爆撃によって首を、腹を、手脚を吹き飛ばされた。多くの幼い子供が壕の中で「泣き声がうるさい」と殺された。母親たちは幼い子供を抱えて水と食糧を求めてさまよい歩き、投降を勧告する米兵から逃げまどい、壕にこもっては戦車や火炎放射機の容赦ない攻撃にさらされ、砲弾で、爆弾で、銃弾で、火炎で殺され、飢えて死んでいった。あちこちの壕で、原野で集団自決が行われた。中南部では、数多くの壕内に、山に、道路に、畑に、林に、至る所に子供、老若男女の屍が横たわっていたという。
 大小多数ある壕内は地獄だった。琉球石灰層から成る沖縄本島は、島のいたる所に天然の洞窟があり、これに手を加えて地下陣地、野戦病院としたものが数多く設営された。数千人の将兵を収容できたという首里の32軍指令部はじめ、南風原の洞窟を拡張して野戦病院に仕立て、戦傷病者を収容したが、医師も医薬品も乏しく、戦闘末期には、重傷者にはほとんど医療を施すことなく青酸カリを与えて自死させるか、注射して殺害するか、あるいは手留弾を与えて自決させて病院壕を撤退した。平時であれば容易に治療も療養も可能であった人々が、戦争遂行の過程で足手まといになるとして殺されていったのである。
 指令部が首里の壕を撤退した後、5月末から6月23日までの間、軍や行政の保護も受けられなくなった住民の犠牲は夥しい数に上り、沖縄戦における住民の戦没者全体12万人余の6割が、第32軍が南部撤退した5月下旬から6月23日までの間に亡くなっている。
 本島南端の摩文仁、喜屋武岬に追い詰められた32軍指令部は、6月23日早朝、第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が自決し、これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。しかし、牛島中将はなお遊撃戦を継続する命令を発していて、鉄血勤皇隊の解散前後の1945年6月18日付で発令され、千早隊隊長の益永董陸軍大尉あてに「軍ノ組織的戦闘終了後ニ於ケル沖縄本島ノ遊撃戦ニ任スヘシ」と命じている。死せる敗軍の将がなお生存する兵・十代の少年たちに戦って死することを迫っているのである。天皇の赤子とされた国民老若男女は、天皇と天皇制(国体)を守るためなら、進んで命を差し出すべしというのが、この無謀な戦争に国民・兵士を動員する思想の核心であった。
 牛島司令官らが自決した後も米軍による掃討戦は続き、7月2日になってアメリカ軍が沖縄戦終了を宣言し、降伏調印式が行われたのは、1945年8月14日のポツダム宣言受諾の後、9月7日のことである。
 毎年6月23日には、戦争終結の日として平和の礎前で祈念式典が行われている。
▽今なお続く沖縄の苦難
 今なお続いている沖縄の苦難について、2017年5月18日の朝のNHKラジオの番組「社会の見方・私の視点」で、ノンフィクションライターの藤井誠二氏が切々と語り、訴えている。戦後、1945年から1972年まで沖縄琉球諸島は日本政府の統治から切り離され、アメリカの信託統治領として米軍政下に置かれた。形式的に琉球諸島の人々によって組織される琉球政府・立法院・裁判所が設置されたが、米軍政府は絶対的な権力を持ち、琉球政府の長である行政主席は高等弁務官(軍人)を頂点とするアメリカ民政府により任命された。立法院では法令が制定されたが、米軍政府の統治に不都合な法令はしばしば執行停止されている。  基地建設に必要な土地の接収等が大々的に行われた。沖縄の人々の基本的人権は制限され、日本国憲法に定められた民主主義、平和主義も尊重されることはなかった。さらに、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、湾岸戦争、イラク戦争と、アメリカは大戦後も戦争を繰り返してきたが、沖縄は出撃・中継基地として重要な役割を果たしてきた。その間、戦場に駆り立てられて疲弊荒廃した米軍兵士による強盗、窃盗、殺人、強姦、家宅侵入といった凶悪犯罪が後を絶たなかった。しかも、米軍人・軍属が為した犯罪のほとんどが治外法権下の基地内で軽微な罪に処せられるか、アメリカ本土に送還される等して、ろくな補償も受けられぬまま、被害者は泣き寝入りを強いられ、島民は長い苦難の歳月を過ごさなければならなかった。砲弾の誤射、米軍機、ヘリコプターの墜落事故も繰り返し起きているし、米軍関係者が運転する車が一般道で起こす交通事故も多発していて、轢き逃げ事件も少なくない。
 昨2016年にも、米軍関係者による許し難い凶悪犯罪が起きている。昨年5月14日私は、うるま市役所から嘉手納基地に向けての平和行進に参加した。私が沖縄にいた4日の間、ホテルのテレビのニュースはこの町に住む20歳の女性が4月28日から行方不明になっていることを繰り返し報じていた。その女性が米軍属の男にレイプされた上殺害され遺体がうるま市内の林に遺棄されていたという報道に接したのは、横浜の自宅に帰ってからだった。何と残忍冷酷で痛ましい事件であることか。1995年には12歳の少学生が3人の米軍人(キャンプハンセン所属)にレイプされ重傷を負う事件が起きて、県民の怒りは沸騰した。沖縄ではこのような事件がいまだに後を絶たず、事件が起きた場合も米軍の優位・特権を認めた日米安保条約に基づく日米地位協定に阻まれて、警察の捜査は難行するケースが後を絶たない。1972年5月15日、沖縄・琉球諸島が日本に全面返還された後もなお、沖縄は在日米軍基地全体の70%以上の基地を抱え、米軍人・軍属の犯罪や事故に苦しみ続けている。現在の宜野湾市の普天間基地の早期返還、名護市辺野古、高江ヘリ駐機場の建設反対運動は、このような沖縄の苦難に満ちた歴史を踏まえて、耐えに耐えてきた沖縄の人々の心からの要求であり、叫びである。
☆参考文献
『鉄の暴風 沖縄戦』(沖縄タイムス社編)
大田昌秀著『沖縄の心 沖縄戦と私』『沖縄 平和の礎』(いずれも岩波新書)
石野敬一郎著『ひめゆりの塔』(金剛社)
宮良ルリ著『私のひめゆり戦記』(未来社)
中野好夫・新垣守照著『沖縄戦後史』(岩波新書)
『新聞記者が語り継ぐ戦争11.沖縄―白梅の悲話』(読売新聞社)
田宮虎彦著『沖縄の手記から』(新潮社)
ウイキペディア関連資料・その他
017.5.20)


障害者は不幸をつくることしかできないか


 7月26日深夜に発生した相模原市の津久井やまゆり園の入居障害者大量殺傷事件。この残忍冷酷な犯行を決して許してはならない。「障害者に安楽死を」という植松聖という男の思想を断じて受け入れることはできない。
 この男の犯行を食い止めることはできなかったか、警備体制はどうだったかという議論は理解できるが、中東、EU、アメリカほかで頻発しているテロ同様、このような社会の片隅に潜む犯罪者の行為を、警察当局が事前に察知して食い止めることは至難のことだ。この犯人は、周到に計画を立て、その計画に従って19人の人々を殺害し、加えて26人を殺害しようとして重傷を負わせた。大麻を吸っていた可能性があるというが、せいぜい精神安定剤として用いたのだろう。大麻によって生ずる幻覚に拠る犯行ということではあるまい。
 犯人の植松聖が衆議院議長宛書いたという手紙の中に、「障害者は不幸をつくることしかできない」という下りがある。偏狭で差別意識に満ちた言葉だ。私も含めて、障害者本人も、かかわっている家族も、友人知人も、施設の職員も、それぞれが幸せを感じ、感じたことは、さまざまな生活の場面場面であり、あったはずだ。幸せというのは抽象的な言葉で、これが堅牢なビルのような、数十年にわたって持続するものとは全く違う、はかなく移ろいやすいもので、そうであるがゆえに尊くかけがえのないものなのだが、この植松という男は、「幸せ」とか「幸福」という言葉がもつ、豊かで多様で、うつろいやすくはかなくもある、そうであるがゆえに一層かけがえのない、「幸せ」を味わったことがないのだろうか。至福の一時を過ごしたことがないのだろうか。どうやら植松のいう「幸せ」は、せいぜい絵に描いた餅で、煮ても焼いても食えない餅だ。何と心貧しく愚かな男であることか。
 そういう愚か者が、生硬な優生思想にとりつかれ、偏狭な美意識をもって「ビューティフル・ジャパン」などと書く。何が「美しい日本」だ。
 そんな政治的スローガンをふれ回っている政治家がまき散らす毒におかされた26歳の男の凶行を受けて、二度とこの世に戻ってはこれない人々の生活を思う。この人々は、おいしいものを食べたとき、おいしいという意思表示をしなかっただろうか。一口食べてもう二口三口食べるということは、おいしいという意思表示を含んではいないか。
 入浴して新しい衣服に着替えたとき、彼女は、彼は気持よかったのではないか。やさしく響く歌声、ピアノやバイオリンの音色に聞き入ったことはないだろうか。朝目覚めて、耳に届く鳥のさえずりに、施設の人々が動く様子に、今日も自分は独りぽっちではないと安堵しなかっただろうか。それが、そのくり返しが幸せを感じるということなのだ。
 ナチスドイツでは、1939年から、T4作戦という安楽死計画を強行した。精神障害者、知的障害者、遺伝病発症者、難病者、重度の身体障害者を対象に、民族の血を劣化させる劣等分子の殲滅と断種を目的に、大量虐殺計画を強行した。障害を負った人々をトラックの荷台に据えたボックスにいざない、お茶とお菓子を与え、ボックスの中にトラックの排気ガスを注入して殺害したほか、さまざまな方法でこの作戦によって殺害された人は7万人〜20万人に及ぶという。
 植松聖が唱える思想は、このナチスの、ゲルマン民族・アーリア人の優位、血の純潔を守るために為した大量虐殺の思想に通じている。これは許される思想ではない。現在の日本に、まがりなりにも生きているヒューマニスムや生存権をはじめとする基本的人権の保障、民主主義といったものを根こそぎ圧殺してしまおうという思想だ。
 昔、三島由紀夫の4部作『豊饒の海』の最終巻、『天人五衰』という小説を読んだことがある。この小説に自殺未遂の結果、全盲に陥った青年「透(とうる)」と、精神障害の少女「絹江」(きぬえ)が出てくる。ここで三島は、彼の美意識にとって受け入れ難い、障害を負った二人を、完膚なきまでにいたぶり、笑いものにする。そして、この二人の存在と豊醸の海四部作を通してのヒロイン、聡子(さとこ)が認知症になり、過去を忘れてしまったこととをもって、人生の無意味と世界の終わりの象徴として描いている。
 そうではない。そうであってはならないのだ。三島のようなペシミストが偏狭な美意識で描ききれるほど世界は一元一様なものではなく、多元的で多様な、70億を超える人間が一生懸命生きている世界なのだ。知的障害であろうが、精神障害であろうが、目が見えなかろうが、耳が聞こえなかろうが、手足が不自由だろうが、人工透析を受けていようが、肌の色が黒かろうが白かろうが、人々はみんな一生懸命生きているし、それぞれの仕方で幸福を享受しているということを、植松という優生思想にとりつかれた男に、この時代に生きるすべての人々に理解してほしいと痛切に思う。

▽以下に植松聖の衆議院議長宛の手紙のtxtコピー版をはり付けます。


▽衆議院議長大島理森様
この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。
今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。
世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。
私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。
衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。
文責 植松 聖
作戦内容
職員の少ない夜勤に決行致します。重複障害者が多く在籍している2つの園を標的とします。見守り職員は結束バンドで見動き、外部との連絡をとれなくします。職員は絶体に傷つけず、速やかに作戦を実行します。
2つの園260名を抹殺した後は自首します。作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。
新しい名前(伊黒崇)本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。美容整形による一般社会への擬態。金銭的支援5億円。
これらを確約して頂ければと考えております。
ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。
日本国と世界平和の為に、何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します。想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。
植松 聖

戦争と人間

▽集団安保法制反対集会
 2015年9月18日夜まで、集団安保法制反対集会に参加すべく、国会前にかよった。数万人の人々が、思い思いに集団安保法制反対のメッセージを記したプラカードを掲げ、太古やカスタネット、タンバリンなどを打ち鳴らして参加していた。日中は子供連れのお母さんたちも大勢参加していたし、学生はもとより、特定のグループに所属せず、三々五々集まってくる中年から高齢の人々も多かった。私は、国会周辺の歩道や憲政記念会館周辺、公園をぎっしりと埋めた数万人の人々と、法制反対の声を上げた。大勢の学者、文化人、野党所属議員が続々とマイクを握って反対の意思表示をし、国会内での審議の様子を報告した。「もはや自民党は保守政党ではありません。極右政党であり、ファシズム政党です」「皆さん、長生きしましょう、長生きして、戦争法案に反対し続けましょう」といったメッセージに共感を覚えた。国内大多数の憲法学者が、「違憲」の烙印を押した集団安保法制を、安倍政権は遮二無二成立させようとしている。内閣の法の番人である、歴代の内閣法制局長官が「集団的自衛権は違憲」としてきた判断を、長官の首を横畠氏にすげ替えた途端、簡単に集団安保法を「合憲」としてしまった責任の重さを、横畠長官はどれほど感じているだろうか。
 19日深夜、法案は参議院本会議で可決された。あとは選挙しかない。私はそう思いつつ国会前を後にした。遅い時間だったが、私と入れ替わるように、後から後から国会周辺を目指す人々が絶えなかった。
 その後何日か、脱力感に見武われて、職場に通う以外、私には、前向きに何かに取り組もうという意欲が失せていた。
 そんなある日、視覚障害者のためのライブラリー「サピエ図書館」で研索して、五味川純平さんの小説、『戦争と人間』全18巻を読みはじめた。読み進むうち、私は小説の世界に深く引き込まれていき、職場に通う維外、読書に没頭した。深夜といわず、明け方近くまで読んでいたことが何度もある。長期の休みもあって、半月ほどで18巻すべてを読み終えた。
 かつて中学生の頃、同じ五味川純平さんの作品、『人間の条件』を読んだことが、私が反戦平和を目指す大きな動機づけになり、その信念はいまだに揺らぐことがない。
 実は、1960年代半ばから刊行が始まった『戦争と人間』の第一巻から12巻までを、私は70年代中頃までに読み終えていた。その後しばらく途絶えて、「裁かれる魂」と副題の付いた13〜18巻が発行された1980年代には、私の視力は長時間の読書に耐えられないまでに落ちていた。実に40年ぶりに全巻を読み終えたことになる。
 読み終えたとき、私は深夜の自室で感動に震えながら今は亡き作者に向けて合掌した。
▽作者の実体験に基づく作品
 『戦争と人間』の作者の五味川純平さんは、1916年旧満州大連(現在の中国遼寧省大連市)の生まれで、東京外語学校英文科卒業後、満州鞍山(あんざん)の昭和製鋼所に就職。1943年、27歳で関東軍(当時の在中国日本軍)の召集を受けて入隊。当時日本が職民地化していた満州とソ連の国境守備隊に配属された。1945年8月9日、軍用機、戦車、砲を装備した100万を超えるソ連の大軍が国境を越えて満州に進攻してきたとき、国境の日本軍には砲・戦車・弾薬もわずかしかなく、機関銃、手留弾や小銃・銃剣で白兵戦を挑み、あっという間に防衛線を突破されてしまった。この戦闘のはるか以前から、日本軍は白兵戦による玉砕をもって「天皇陛下の御恩に報いるべし」として、兵士に降伏はもとより撤退も許さなかった。その結果、五味川さんと同じ連隊に所属した158名の兵士のうち、戦闘で生き残ったのは五味川さんを含めてわずか4名だったという。
 五味川さんは戦闘後、ソ連軍の捕慮としてシベリアに移送され、極寒の地で重労働を課せられ、3年後(1948年)帰国した。この従軍と捕慮生活の苦難に満ちた経験が、五味川さんに『人間の条件』や『戦争と人間』を書かしめた。
まず『人間の条件』全6巻を書き上げ、これが1300万部を超える大ベストセラーとなり、映画化され、テレビドラマ化もされた。戦争と人間は、人間の条件出版後に書き始められた五味川さんのライフワークになる大作で、日本と中国旧満州を舞台に、新興財閥伍代一族とその周辺の人々が戦争の波に翻弄されていく姿を中心に、1927年(昭和2年)から1945年(昭和20年)までの、日本が日清・日露戦争で得た中国大陸満州での権益を足がかりに、満州の植民地化を推し進め、日中戦争から太平洋戦争、敗戦に至る18年間の、大日本帝国の崩壊と、無謀な戦争で命を、平和な生活を奪われた人々の受難を描いた大作である。
▽物語のあらまし
 『戦争と人間』は、1927年(昭和2年)春、東京麹町での新興財閥、伍代家の新築披露パーティーの場面から始まる。時代は昭和恐慌のただ中、渡辺銀行の経営破綻に始まり、36の銀行が次々に破綻に追い込まれていった頃である。伍代一族とその周辺に生きる人々、当主の由介(ゆうすけ)、次男俊介、長女由紀子、次女順子(よりこ)、長男英介、由介の弟で満州伍代産業の社長の伍代喬介、標耕平(しめぎこうへい)、陸軍将校の柘植(つげ)、伍代産業の技術者、矢次(やつぎ)、狩野温子(かのうあつこ)、梅田邦(うめだくに)、伍代喬介の部下高畠、中国人反満抗日活動家の白永祥、朝鮮人反日活動家の序在林、伍代喬介の下で誘拐、殺人と、悪の限りをつくす鴫田(しぎた)と、貧困と孤独ゆえに鴫田の悪の手ほどきを受けて悪事に手を染めていく少年大塩雷太(おおしおらいた)。開業医の不破、細菌学者の服部、服部の助手をしている趙延年(ちょうえんねん)と妹、趙瑞芳(ちょうずいほう)。プロレタリア画家の灰山、身売直前に灰山の助けで伍代家の女中として働くようになる「とま」。これらが主な登場人物だが、場面場面でその他大勢の人物が登場し、かつ、歴史上さまざまな事件の詳細と実在の人物も多数登場する。登場人物たちは、狂気の時代を動かした軍政下の日本と満州で権勢をほしいままにした多くの上級軍人たちが、時代の鞏気に突き動かされて行動するうちに巻き起こした巨大な渦に否応なく巻き込まれ、ある者は生き延び、多くの者が悲業の死を遂げる。狂気の時代に青春を送らなければならなかった若者たちの悲しくひたむきな恋がいくつも描かれていて、読む者の胸を打つ。
 当時の満州は、蒋介石統いる国民党軍、中国共産党勢力、ロシア革命を逃れて満州に移住してきたロシア人、ソ連共産党の工作員、その他大小の土着の武装グループ、日本の植民地であった朝鮮半島の反日活動家、日本の関東軍とその特務機関員等が入り乱れて、治安は乱れ、暴行、掠奪、誘拐、殺人、女性・子供の人身売買、阿片密売と、ありとあらゆる非人道的な行為が横行し、人混みで隣を歩いていた人物が突然射殺されるというような暗殺事件も日常的に起きていたという。
 1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃以降、南米を除く大平洋とその周辺全域が戦場になり、民間人・軍人を問わず、そこに暮らす人々は逃れ難く戦火に呑み込まれて命を奪われた。日中戦争・太平洋戦争での犠牲者の数は、東アジア・南米を除く太平洋全域で2,229万人に達するという試算がある。(ウイキペディア「太平洋戦争」ほか)
 五味川さんは、この戦争でいかに多くの人々が、命を、家族を、友人を、人々が幸せに生きる権利を奪われていったか、戦争の悪と残酷さを冷徹な筆致で描いている。
▽満州と満州帝国
 1945年(昭和20年)8月15日の日本の敗戦に至る戦争の歴史を考えるとき、中国と、中国大陸の東北部に位置して、満州と呼ばれた、日本の4倍以上の面積を有した広大な地域と日本の関係を見ずしてこの時代の日本を論ずることはできない。起源は明治時代に起きた2つの戦争に遡る。日清戦争1894年〜1895年(明治27年〜28年)、日露戦争1904年〜1905年(明治37年〜38年)の2つの戦争を経て、帝国日本は台湾の領有、中国大連・旅順の租借権を手にし、朝鮮併合による朝鮮半島の職民地化(1910年(明治43年)を進めるとともに、さらに旅順-長春間の南満洲鉄道と、武順炭鉱、鉄鉱石を産出する鞍山を手中におさめ、鉄道沿線への軍隊の駐留を認めさせ、朝鮮半島と満州を支配下に置いた。
 満州の面積は144万平方キロ(日本は38万平方キロ)、人口は1942年時点で4424万人(満州国務院調べ)、うち日本人は170万人。当時日本の人口は約7100万人だった。(現総務省人口統計)
 1928年(昭和3年)、日本の満州支配の邪魔になる奉天派軍閥の領袖、張作霖を関東軍の河本大作の指揮のもと爆殺し、さらに1931年(昭和6年)、関東軍高級参謀の石原莞爾、板垣征四郎等の指示の下、満鉄の線路を爆破して、これを中国張学良軍の仕業と見せた柳条湖事件を契機に満州事変を起こし、満州を武力で制圧し、1932年3月、紫禁城を追われて天津の日本人疎界に身を寄せていた清王朝12代目皇帝であった26歳の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を執政に立て、2年後に溥儀を満州帝国皇帝に即位させた。満州帝国政府の主要なポストには中国・満州人がなを連ねていたが、実際に政策を立案実施していたのは関東軍の上級軍人と日本の官僚たちで、南満州鉄道・武順炭鉱・昭和製鋼所はじめ、重要産業も日本が占有する全くの傀儡国家で、国会に当たる立法院は名ばかりで議会は開かれたことがなく、国籍法さえ施行されていなかった。
 満州国の政治権力を抄握して政策を推進した国務院総務庁の次長には、後年A級戦犯として拘留された巣鴨拘置所を釈放されて後に首相になる、岸信介が就任した。岸は満州産業の工業化推進に辣腕をふるう一方、満州国のフィクサーといわれた甘粕政彦を介して、関東軍が専売権を握って資金源にしていた阿片の取引で巨満の財を得て東条内閣の国務大臣・商工大臣に就任する。(太田直樹著『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』より)
 蒋介石の国民党政府は、国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴。1933年(昭和8年)2月、国際連盟はリットン報告書に基づいて日本軍の満州撤退勧告を決議した。これに対して日本政府は国際連盟脱退を通告し、遮二無二満州の職民地化を進めていく。
 1929年のニューヨーク・ウォール街の株式市場の暴落を契機に世界中を巻き込んだ大恐慌の波を受け、それでなくても貧困を極めていた当時の日本国民の大多数はさらなる貧困にあえぎ、地方では一家が生き延びるために、娘を都会の売春業者に売り渡す家庭が後を絶たず、若い男たちは、懲兵検査を機に、三度の飯を食わせてもらえる軍に続々と志願していったという。
 関東軍・日本政府は、大和族・漢族・満州族・朝鮮族・蒙古族の五族協和・王道楽土のスローガンを掲げ、特に日本本土と朝鮮半島で生活していた貧困層に満州移住を積極的にすすめた。満州には日本本土から三菱・三井・住友、安田といった財閥系の銀行と鉱工業企業群、ほか日産自動車、浅野セメントといった大企業、その他ホテル、デパート、映画、マスコミ等の小売・サービス産業が進出するのに伴って多くの日本人が移住し、日本本土との間を活発に往来した。1945年の段階で満州で生活していた日本人は195万人に上るといわれている。
▽戦争政策の推進
 1945年(昭和20年)の敗戦に至る帝国日本の歴代軍事政権は、1941年の日米開戦後は、国家総動員令をもってあらかたの国民を戦場と軍需生産の現場に駆り立てていった。1928年(昭和3年)の張作霖爆殺事件。1932年(昭和7年)の五・一五事件。1933年(昭和8年)、満州占領をめぐって国際連盟脱退。1935年(昭和10年)の永田鉄山陸軍軍務局長斬殺事件。1936年(昭和11年)の二・二六事件。1937年(昭和12年)の日支事変から日中戦争へ。同年、日本軍が南京の一般市民と兵士を大量虐殺した南京事件。1940年(昭和15年)9月に締結された日独伊三国同盟は、39年9月以来ナチスドイツと戦争状態にあったイギリスと日本、イギリスの同盟国アメリカと日本の関係を決定的に悪化させ、1941年12月8日の真珠湾攻撃をもって日米開戦に至る。
 真珠湾攻撃、インドシナ半島上陸、シンガポール攻略、アメリカの植民地であったフィリピン、オランダ領だったインドネシアへの進攻、さらにオーストラリア北岸各都市への空襲と、当初は好調だった戦績も、消耗する艦船、軍用機をはじめとする武器弾薬ほかトラック、輸送船などの軍需物資、さらに重要な食糧、医薬品も、生産の遅延と、度重なる戦闘で制空・制海権を失い、延びきった前線への海上輸送による補給がつかなくなってゆき、同時に船舶、航空機、砲、車両等を操縦・操作する熟練兵の大量の戦死・病死等により帝国日本の戦争遂行能力は急速に低下していった。さらに、停察能力、特にレーダーによる索敵能力、暗号解読力の差が甚だしく、多くの場合、日本の作戦は事前に米軍に察知されてしまっていたため、敗退に次ぐ敗退に拍車がかかった。
 これに対して豊富な物量と兵員、優れた科学技術を有したアメリカとの力の差は広がるばかりで、1942年6月のミッドウェー海戦、1943年2月のガダルカナル島、同年6月のマリアナ沖海戦、1944年10月のレイテ沖海戦と、太平洋の島々をめぐる戦いで次々に敗れ、帝国日本は太平洋上の拠点を失い、後退に継ぐ後退を余儀なくされ、インパール作戦等の地上戦でも敗北を続けた。
 石油で日本の500倍、石炭で10倍、鉄鋼生産量で20倍の平時生産力をもつアメリカと戦って勝てるわけがない。九州の八幡製鉄所と並ぶ鉄鋼生産を誇っていた満州の昭和製鋼所で調査の仕事をしていた五味川さんは、当時すでにさまざまな戦力比較のデータを把握していて、この戦争は最初から負けるとわかっていた戦争だったという。1944年7月、サイパン島玉砕と周辺の島々での敗北、あるいは同年10月のレイテ沖海戦をもってすでに勝敗は明らかだった。
 そして、仮に終戦の勅令を発するに必要な合意形成に手間どったとして、1944年12月、遅くとも翌1945年2月末までに戦争を終えていれば、度重なる本土空襲による30万人といわれる民間人の死者、12万人の死者を出した沖縄戦も、広島・長崎で被爆して亡くなった22万余の人々も、中国・満州からの避難途上で亡くなった人々、あるいはシベリアの捕慮生活で命を落とした10万余の人々、特攻で4,000人の若者が命を落とすこともなくて済んだはずだ。それが、軍のメンツや、大本営に陣取って戦争を主導してきた参謀、将官・佐官たちが「一億玉砕」などという狂気に満ちたスローガンを掲げて戦争継続を叫び、天皇と天皇を取り巻く重臣と政治家たち、戦争遂行をあおり続けたマスコミ人が、一部軍人や右翼のクーデターやテロを恐れて手をこまねき、終戦の詔勅を発することができずに無為に時を費やした。他国と自国の2,200万余の人を死の渕に追いやった張本人たちが、テロを恐れるというのは醜態の極みであるが、五・一五事件、永田軍務局長斬殺事件、そして二・二六事件といったクーデター未遂事件やテロが、ナチスドイツとの同盟や日米開戦といった無謀な戦争政策の推進を後押しし、終戦を遅らせたことは確かである。
▽大量殺戮の連鎖
 日本政府は1945年までに満蒙開拓移民団22万人を満州各地に入植させたが、その過程で中国・満州の農民の農地を日本本土や朝鮮半島からの開拓団のために奪ったため紛争が絶えなかった。1932年9月、鞍山で起きた反満抗日部隊(当時日本人はこれらの武装勢力を匪族と呼んでいた)による製鉄所襲撃事件と、これに対して行われた関東軍による掃討作戦で、平頂山の集落に住む地元満州人数百人以上を殺害した平頂山事件。1937年7月、北京近叩の通州で、日本の民間人200数十名が惨殺された通州事件。同年12月、南京に入った日本軍が為した数万人に及ぶ南京市民と国民党兵士の虐殺事件、その他多くの大量殺戮が繰り返された。
 戦争は殺し合いである。殺すか殺されるか。殺さなければ殺されるという恐怖心が殺戮の連鎖を生む。対面する敵と戦い、殺されるという恐怖心と闘って、体も心もボロボロになって、多くの兵士たちが傷つき、病み、死んでいった。
 戦火は敵軍のみならず、一般市民にも農民にも無差別に襲いかかる。爆弾を投下し、砲撃を加え、何万、何十万、何百万という人を殺してゆく。日中・太平洋戦争で東アジア、南米を除く太平洋地域で犠牲になった人は、一般市民・農漁民・軍人・軍属合わせて2,229万人に達するという試算がある。(ウイキペディア「太平洋戦争」より)
▽731部隊

 1936年(昭和11年)〜1945年8月まで、現在の黒竜江省ハルピン(哈爾浜)近叩に設けられた関東軍防疫給水部本部、通称731部隊の広大な施設では、1940年時点で、軍人1235人と軍属2005人の軍人・軍属によって、反日活動ほかの理由で逮捕拘束された中国・満州人、朝鮮人、ロシア人、さらに太平洋戦争が始まって以降は米軍捕慮を含む3000人の人々を生きたまま実験の験体として使用し、全ての人を殺害した。拘束された人々は一括して「マルタ」と呼ばれ、番号を付され、当時すでに国際条約で禁止されていた生物細菌兵器・毒ガス等の化学兵器の開発を主たる目的に、ペスト、コレラ、炭素、破傷風、梅毒菌等を注射、散布する等、さまざまな方法で被曝、罹患させられ、生きたまま解剖され、あるいは毒ガスの生産と効果に係る実験、火傷・凍傷といった物理的実験等、残忍冷酷な実験が組織的に1945年8月の敗戦に至るまで行われていたという。
 731部隊に関する文献を読んでいると、人間はこれほど残忍冷酷になれるものかと戦慄を覚える。『戦争と人間』の登場人物、若く美しい中国人女性、趙瑞芳(ちょうずいほう)は、反日活動をしたとして官憲に追われ、苦難に満ちた逃亡の果てに、この関東軍防疫給水部本部で殺害される。
1945年8月、ソ連軍の満州進攻、ポツダム宣言受諾の報を知った731部隊上層部は、まだ生き残っていた数十人の人々を毒ガスで殺害し、いくつもあった収容棟、研究棟に火を放って焼き尽くし、証拠隠滅を図った。規模は違うが、ナチスドイツの強制収容所で行われていたと同様のことが、この731部隊でも日々行われていたのである。
 しかも、防疫給水本部長の石井四郎軍医中将・北野政次軍医少将はじめ、多くの医師・学者、関係者の中には戦後、裁きを受けることなく医学界の要職に就いた者も多かったという。(森村誠一著『悪魔の飽食』、ウイキペディア「731部隊」ほか)
▽敗戦、報復、難民化
 1945年8月のソ連軍の満州進攻、日本の敗戦を機に、支配と被支配の立場は逆転した。帝国日本軍の武力をもって支配され、人間としての諸権利を奪われ、苛酷な生活を強いられていた中国人・満州人、朝鮮人、蒙古人と、日本人との立場が逆転したとき、何が起きたか。日本軍・日本政府の「新天地満州へ、王道楽土満州へ」という甘言にいざなわれて満州に渡り、敗戦時満州に居住していた多くの日本人は、軍人も民間人も、日本軍による侵略と収奪、抑圧支配され続けた積年の恨みを晴らす対象とされ、掠奪と暴行、殺害の危機にさらされた。恐怖におののき、逃亡もままならず、老若男女、特に女性・子供・高齢者は、集団自殺に追い込まれ、非業の死を遂げるに至った人々が何万人であったか、いまだに不明だという。満州各地に入植していた開択団の人々は、いざというときの自殺用に青酸カリを配布されていた。こうした中で、1945年8月14日、満州国興安総省(現中国内モンゴル自治区興安盟)で、避難民として葛根廟(かっこんびょう)に避難していた1,200名余の女性・子供を中心とする日本人のうち1,000名余がソ連軍に虐殺されている。
 さらに1946年2月に起きた通化事件では、反乱を起こそうとした日本軍の残党と日本人市民3000人が虐殺された。
 1948年5月〜10月にかけて、国民党軍が駐留していた人口55万人の長春(満州国の首都であった新京)は、中国共産党軍によって包囲され、食糧の補給を断たれ、33万人の一般市民と国民党軍軍人が餓死し、うち餓死した日本人市民は8万人に上ったという。これらのことは、山崎豊子さんの小説『大地の子』、遠藤誉さんの『チャーズ・続チャーズ』、ウイキペディア「満州避難民」ほか多数の文献に詳述されている。
 ところで、関東軍の将官や上級将校たちは、1945年8月9日のソ連軍進攻を知るや否や、満州各地で暮らしていた日本の人々を助けることもなく、置き去りにして家族とともに我先に日本に向けて逃亡を図ったという。以下はウイキペディア「ソ連対日参戦」にある、日本軍高級将校・官僚とその家族ほかの逃亡に関する記述である。
《当時満州国の首都新京(現在の長春)だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。3万8000人の内訳は、軍人関係家族 20,310人。大使館関係家族 750人。満鉄関係家族 16,700人。民間人家族 240人。この時、列車での軍人家族脱出組みの指揮を取ったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり、またこの一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と供の者はさらに平壌からは飛行機を使い8月18日には無事日本に帰り着いている。
 当時新京在住で夫が官僚だった藤原ていによる『流れる星は生きている』では、「避難の連絡は軍人と官僚のみに出され、藤原てい自身も避難連絡を近所の民間人には告げず、自分達官僚家族の仲間だけで駅に集結し汽車で脱出した」と記述している。また、辺境に近い北部の牡丹江(ぼたんこう)に居留していた作詩家・作家のなかにし礼は、避難しようとする民間人が牡丹江駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロはなれた地点から特別列車を編成し脱出したと証言している。
▽甘すぎる和平工作

 帝国日本は1944年秋から、何とか有利な条件で戦争の終結を図ろうと和平を模索し、米英との和平交渉の仲介の労をとってくれるようソ連に働きかけていたという。しかし、ナチスドイツとイタリア、帝国日本は三国同盟を結んでいた。そのナチスドイツと、ヨーロッパ東部戦線で2,000万人を超す途方もない死者を出して死闘を繰り広げていたソ連が、日本の立場を理解して有利な和平交渉に手を貸すわけがないではないか。当時帝国日本の権力中趨にあった人々の愚かさには唖然とするばかりである。以下はウイキペディアの、連合国が描いた太平洋戦争終結のシナリオに関する記述である。
《ルーズベルト米大統領は1943年のカサブランカ会談で、日本を含む枢軸国に対して事前に一切の条件交渉を認めない「無条件降伏」を求める方針を確認していた。1944年の10月14日、ルーズベルトは、日本の降伏を早めるために駐ソ大使ハリマンを介してソ連による対日参戦を促した。同12月14日にソ連共産党書記長のスターリンは、米国に武器の提供と樺太(サハリン)南部や千島列島の領有を要求、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした。1945年2月4日から11日にかけて、クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト・イギリス首相チャーチル・スターリンによるヤルタ会談が開かれた。会議では大戦後の国際秩序や、またソ連との日本の領土分割などについて秘密協定「極東密約」としてまとめられた。》
▽愚将とインパール作戦
 五味川さんは、戦争と人間第4部の「裁かれる魂」の中で、生産力と物量に大差のある状況でアメリカに無謀な戦いを挑んだ帝国日本の愚と、日露戦争以来の白兵戦や特攻に勝敗を賭け、結果、兵士と国民の命を消耗品のように扱った戦法を厳しく批判している。以下は、太平洋戦争を通じて日本軍がとってきた精神主義、白兵戦と玉砕戦法が、いかに帝国日本軍を蝕んでいたかを象徴する、インパール作戦(日本陸軍が英米の蒋介石支援ルートの要衝であるインド北東部のインパールを攻略しようと立てた作戦で、太平洋戦争中、日本軍がとった最悪最低の作戦といわれ、約7万人の餓死者・戦病死者を出した)の司令官、牟田口廉也中将が、1944年7月10日、師団幹部を集め、泣きながら訓示したという、狂気に満ちた言葉である。
《諸君、佐藤烈兵団長(餓死・戦病死する兵士の多さに、作戦途中、独断で撤退を決断した第31師団長の佐藤幸徳中将のこと)は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる〜》(『太平洋戦争 日本の敗因4 責任なき戦場インパール』NHK取材班。ウイキペディア「インパール作戦」)参照
 何と愚かしく狂気に満ちた暴論であることか。こういう愚将がインパール作戦のみで7万人もの兵を、戦闘ではなく、病気と飢餓によって死に至らしめたのである。
 このインパール作戦で、退却を始めても日本軍兵士達は飢えと病気に苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱し、マラリアや赤痢に罹患した者は、次々に倒れて死んでいった。退却路に沿って延々と続く、ウジの湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様を、兵士たちは「白骨街道」と呼んだという。亡くなった7万の兵士たちの悔やしさ、無念さはいかばかりであったことか。『戦争と人間』の登場人物の青年、標耕平も、このインパール作戦の退却徒上、チンドゥイン川で無念の死を遂げる。
 ちなみに、太平洋戦争における日本軍兵士・軍属の死者は230万人といわれているが、実にその60%以上の140万人余が、餓死、戦病死だったという。一銭5厘の葉書一枚で召集され、食事さえ満足にできぬまま飢えて死んでいった兵士を、「御英霊」などと麗々しく持ち上げて恥じない政治家の厚顔無恥ぶりは、どれほど罪深いことか。
▽「後の世代が償いをさせられて」
 『戦争と人間』中、伍代俊介の安否を尋ねに満州伍代産業の伍代喬介を訪ねた梅谷邦(うめたにくに)と喬介の会話が最終18巻に出てくる。この中で邦が語る言葉こそ、五味川純平さんが世界中の人々に訴えたかったことではないかと思うので、以下に紹介したい。
 (昭和20年)1月の終わり、クニは満州伍代産業に喬介を訪ね、ソ満国境守備隊に配属されている、愛する俊介の消息を尋ねる。
《「満州はどうなりますかしら?」
「だから言わんこっちゃないんだ。独ソ戦が始まったとき、ドイツがあの電撃戦を展開していたとき、関東軍も全力を挙げてシベリアからソ連を挟み討ちにすれば、ヨーロッパではモスクワもレニングラードも早々に陥ち、スターリングラードでドイツ軍が敗退することもなかったし、日本軍はウラル山脈の東側までソ連軍を圧迫することができたんだ。対米戦はそれから後でよかった。いや、それから後でなければならなかったんだ。営々と築いてきた満州を簡単に捨ておって」
「捨てるって、どういうことですの?」
「参謀本部のやつら、満州を単に対ソ戦の前線としか考えやがらん。我々が、日本発展のための生命線として営々と数十年かけて築いてきたこの満州をだ」
「戦争は、俊介さんがおっしゃっていたようになったんじゃございませんか」
「どういうことだ」
「日本は、戦争なんかできる国じゃないと、俊介さんはいつもおっしゃっていました。富国強兵の国策が根本的に間違っていたのだとおっしゃっていました。武力で外国に侵入して自国の繁栄を図るという、欧米先進国が前世紀までにやってきたことを今世紀になって実行して、その正当性を世界に認めさせようとしても、そんな無理が通るわけがないともおっしゃっていました」
「そうやらずに、昭和初期のあの不況期をどうやって乗り切れたというのだ」
「存じません。私は俊介さんほど知識がございませんから、お答えできません。でも、これだけははっきりしているのではございませんかしら。明治以来の人々が、国の実力以上の野心を振りかざして、さんざん勝手なことをして、それを世界中から咎められた後始末を、後の世代が、俊介さんたちが血と命とで償いをさせられていると考えるのは間違っていますでしょうか」
 「戦の旗色が悪くなったから、そういうことが言えるのだ」
「いいえ」
 邦が強くかぶりを振った。
「俊介さんは、戦争が始まったその日から、負けとわかっている戦争をなぜするのかと、嘆いておいででした。いいえ、俊介さんのご本心は、戦の勝ち負けにかかわらず、自国の存立と繁栄のための手段としての武力行使は否定しておられました。戦場に命をさらして戦った人が、戦争は避けねばならぬとおっしゃり、戦場へ行かない人が戦争をなさりたがるのは、おじさま、なぜでしょうか?」
「そうは言ってもな、欧米が武力によって膨張してきた前世紀までの事実は、今世紀になっても消えはせんぞ。武力によってあやつらが他国を圧し、植民地化し、それによって繁栄を築いた事実は世界史に紛れもない。それが今世紀になって、日本やドイツが世界の再分割を要求する理由なんだ。米英諸国に日本を責める資格も権利もない。歴史的にも道義的にも法的にもだ。他国をかすめ奪って販途を広げたやつらが、どのツラさげて日本を責めるか。だから日本は戦争という手段に訴えざるを得なかった。それがわからんか」
「明治以来の方々は、それが正しいとお考えなら、その方々だけで戦争なさればよかったんですわ。年をおとりになったから、自分では戦争できないなんていうことは、何の理由にもならないと思います。膨張政策や侵略戦争には何の責任もない若い世代の国民をご自分たちの身代わりにして、軍国主義教育を叩き込んで、勝つか負けるかの正確な判断もせずに戦争に駆り出すなんて、どうやってご自分を正当化なさいますの」
「国は運命共同体だ。老いも若きもない。ほかのやつらは知らん。俺はな、この戦が負けと決まったら生きていようとは思わん。俺たちが描いていた夢と人生がこれで終わるんだからな」
 喬介と邦の視線が激しく衝突した。
「死ねば、それで済むことでしょうか?」
「どうしろというのだ」
「わかりませんわ。少なくとも戦争に責任のない人が最前線で傷ついたり死んだりしています。何十万も、おそらく何百万も。誰が責任をおとりになるのですか。どんなふうにとるのでしょうか。自殺で済むことでしょうか」
 クニは俊介をしのびながら言い募っているうちに、胸の奥底から激してきて、熱い湯のような涙をこぼしていた。伍代喬介は押し黙ってこの気性の激しい若い女が顔を真っ直ぐに向けて泣くのを見守っていた。》
▽日本国憲法は単なる理想を謳った宣言ではない」
 戦争と人間に限らず、五味川さんの作品には、あの戦争への怒りと悔やしさ、犠牲者への鎮魂の思いが記されている。その戦争から70年を経て、いま私たちは「戦争」を実態験することはできないし、もちろん体験したくはない。しかし反省は是非にもしなければならない。20世紀前半に帝国日本が為した戦争を検証し、深く反省し、旧帝国日本の制度を打破して国民の自由と民主主義を国の基礎とし、主権が国民にあることを宣言し、世界の平和に資する国として、二度と戦争の惨禍を自国と世界にもたらすことのないようにすることを宣言し、世界に誓ったのが日本国憲法前文である。
 さらに憲法97条と98条は以下のように定めている。
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

 これは単なる理想を謳った宣言ではない。1947年5月3日以降、私たち日本人・日本国民が掲げ、これに基づいて法律を定め、国を築き運営してきた最高法規である。今回の安倍政権の暴挙が、この憲法の定めを踏みにじり、現行憲法を死に至らしめようとするものであることを私たちは許すことはできないし、許してはならないだろう。
(2015.11.23)

憲法9条を守ろう

日本国憲法第9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 自衛権ではなく、集団交戦権、あるいは集団戦争権を認める「集団安保法制」が、上記憲法9条に照らして、いかにこの定めを逸脱し、踏みにじっているか、よく理解できると思います。
 なぜ安倍政権は日本の法体系を根底からくつがえすような法律を遮二無二成立させようとするのか。アメリカの属国、アメリカの傀儡たることを世界に知らしむるためか。極右の申し子、神道政治連盟会長たる安倍晋三氏にしては、あまりに無節掻な、なさけない処し方ではありませんか。

 しかし、集団安保法は間もなく参議院で強行採決され、成立しようとしています。戦後70年間、多くの国民が守り抜いてきた平和の碑、憲法9条を、私は一粒の石の力を傾けて守っていきたいと思います。

幸せのスイッチ

−幸せと平和−

 ヒュー、ヒュルル。ヒュー、ヒュルリ!
 春から夏にかけて聞こえるウグイスのさえずりを聞くと、私は幸せを感じる。若いソプラノ歌手の歌声のように美しく輝やかしい声に、私の心は明るくはずむ。ウグイスの歌声は、私にとって幸せのスイッチなのだ。
 人は何に幸せを感じるか。
 それは、「目的を達成したとき」と「ある場に身を置き、あるものに触れたとき」に分けられないだろうか。人が目的を果たしたとき、何事かを成し遂げたときの幸福感は、ほかの何ものにも換え難いものだ。これは個々人の目的達成に向けての努力に負うところが大きい。受験、就職、結婚、出産等々。長い妊娠期間の果てに苦しい出産の時間を経て我が子を胸に抱いた母親が、妻を支えつつ、その時を待った父親が味わうことのできる幸福感はその典型ではなかろうか。
 一方、「ある場に身を置き、あるものに触れたとき」に感じる幸せは、たとえば私のようにウグイスの歌声を耳にしたとき、美しい風景、美しい花を目にしたとき、あるいはおいしいものを食べたとき、心の琴線にふれる一冊の本を読み終え、音楽や映画に接したとき等々、より身近にあるものに触れたとき感じるもので、誰もが感じることのできる、つかの間ではあるがささやかで確かな幸せではないか。人々は、このささやかで確かな幸せを求めて旅をし、レストランに足を運び、本を読み、コンサートホールに、映画館や劇場に通うのではなかろうか。

 この、幸せのスイッチにとって不可欠なものがある。それは何だろう。お金か、健康か、家族や友人たちか、それらのものはあったほうがよいだろう。しかしそれらは不可欠なものではない。お金も健康も家族や友人も、あったほうがよりベターではあるが、なければ幸せを感じられないというものではない。
 それでは、幸せを感じるに不可欠なものとは何か。それは世の平和だ。あらゆる幸せの基本にあるのが平和なのだ。平和なくして幸せはない。戦争は幸せのスイッチを破壊してしまう。幸せを感じる人の心を破壊してしまうのだ。
 一九四五年八月以来、日本には平和な日々が続いている。東日本大震災や阪神淡路大震災、幾多の台風・豪雨災害もあったし、鉄道や航空機事故も多く、これらの災害や事故で多くの人命を失ったが、他国と戦火を交じえることだけはなかった。
 他方世界はどうかといえば、大戦後間もなくの朝鮮戦争をはじめ、中・台戦争、ハンガリー、チェコスロバキアの動乱、四次にわたる中東戦争、中印紛争、ベトナム戦争、フォークランド紛争、印パ紛争、中越紛争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、アメリカと同盟国によるアフガん・いらく進攻、レバノンやリビアの内戦、エチオピア、ソマリア、ナイジェリア、ルワンダ、リビアほかのアフリカ諸国の内戦、あるいは現在進行中のシリア内戦、ウクライナ紛争まで、休むことなく戦いは続けられ、兵士はもちろん、子どもをはじめ、戦火によって何と多くの罪もない人々が犠牲になったことか。その数さえ知れない。
 この間、戦争に加わった国々は、アメリカ・ロシア(旧ソ連)はじめ、イギリス、フランスをはじめとするEU諸国、イスラエル、イラン、イラク、クエートはじめ中東諸国、エジプト、リビア、エチオピア、ソマリア、ナイジェリアほかのアフリカ諸国、アフガニスタン、インド、パキスタン、中国、台湾、韓国・北朝鮮、ベトナム、カンボジア、ラオス、オーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチンをはじめとする中南米諸国と、数えれば百か国をはるかに超えるだろう。これらの国々は、いずれも戦争の被害を被り、多少の差はあれ犠牲者を出している。
 こうした一九四五年以降の歴史をみると、日本がこの六九年間、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争の際に米軍ほか連合軍の後方支援の形で参戦する以外直接交戦することなく、犠牲者も出さずにこれたことは、奇跡と言っても言いすぎではない。
 これは、ひとえに憲法第九条の戦争放棄にかかる定めがあってのことだ。歴代日本政府は、そのほとんどが保守政権でありながらも、太平洋戦争における三百万とも四百万ともいわれる多大な犠牲を国民に強いた戦争を繰り返すまじとして、専守防衛に徹し、交戦権に強い歯止めを掛けてきた。その判断の中核をなしているのが、憲法解釈における「集団的自衛権の行使は現行憲法下ではできない」という解釈だ。ここで理解しておかなければならないのは、この「集団的自衛権」という言葉、そこに込められているのは、集団交戦権」という意味だ。つまり、他国と一緒に不特定の「敵」と戦争をする権利ということだ。
 しかし今、東アジアの緊張が高まっていることを好機と捉えて、武力を増強し、世界中どこでも、アメリカほかの国々と連合しての交戦権を確立しようとする法案が衆議院で可欠され、参議院で審議中である。この法律が成立すれば、自衛隊はアメリカほかの国々と世界中どこへでも出動して戦争ができることになってしまう。断じてこの明らかな違憲法案の成立を許してはならない。
 私たちは、現在の平和を、一人一人の幸せを守るためにも、憲法9条の定めに明らかに違反する法案に反対し、この危険な企てを阻止しなければならない。

 エッセイへ  ▽小説へ  △メッセージへ

ウ グ イ ス

ウグイスの声に幸せを感じる女性の話

野火・・俘虜記

塚本晋也監督・主演の映画『野火』の紹介を受けて、 大岡昇平が書いた原作小説を読みました

平和を守る意思を強くもって

心より平和を望む私の、戦争と平和についての考察です

インフレとマネーゲーム

私たちの生活とかけ離れたところで日々行われているマネーゲームが、私たちの生活を左右するのです。

ウイーン・プラハ・ベルリン、音楽の旅

2012年3月、私は中欧を旅してきました。

雨 の 朝

風雨の強い朝の出勤は大変です。

私の仕事

私の仕事のご紹介です。

EU危機と日本

 EU危機は対岸の火事ではない。どうなる日本、私たちの暮らし

求 心 力

 我が家に家族が一人増えました。

ふつうのピアニストとして

 辻井伸行さんは、視覚障害者である前にピアニストですね。

夢、光あふれる世界へ!

 私たちの夢は遠くない将来叶えられるかもしれない。いや、きっと叶えられる。その日が訪れることを信じたい。

鳥山回廊

 私は、生きて再び歩ける喜びを味わいつつ、冬の回廊を行く。

 私も、来年夏にはヒイラギ南天のように、生きる力に満ちた命としてありたいと思う。

青春の歌

 6月6日、東京オペラシティで、青春の歌を聴きました。

ひいらぎ南天

5月4日、私は玄関先のヒイラギ南天の木を切りはじめました。

『硫黄島からの手紙』

1月6日、映画『硫黄島からの手紙』を観てきました。

おっと危ない

秋の夕暮れ、職場を後にした私が出会った男は…。

昼 食

夏休み、長男と私の昼食は。

初任者研修

花々が咲き揃った横浜公園を歩いて、私は研修会場の県庁舎に向かいました。

春の歌

3月のある日、なつかしい歌声を聞きながら交わした少年との話は?

豪雪とバブルの塔

新潟、南魚沼に住む友人に豪雪の様子を尋ねました。

ミューズの子

今年はモーツアルトの生誕250周年の年。最近のモーツアルトブームに寄せて。

◆若い人たちへ

師走、私は中学校で若い人たちに向けて話をさせていただきました。

◆凝ってますね

ボランティアフェスティバルの日、私たちは区民の皆さんにマッサージサービスをさせていただきました。

◆バッタ

いつも駅で皆さんにお世話になっている私ですが、この前、ちょっとだけいいことをしました。

◆ネクタイ

中学校に入学したばかりの娘は、まだ自分でネクタイが結べません。

◆更衣室のバス

久しぶりに横浜ラポールのプールへ泳ぎに行きました。その更衣室で聞こえたものは。

◆地神ハデスへ、海神ポセイドンへ

台風、洪水、中越地震と天災の多かった2004年、年も押し詰まってまた。

◆頭上のバトル

私の街にはウグイスがいます。彼は、春の訪れとともにさえずりはじめます。

◆マッチ売りの少女

アンデルセンの童話『マッチ売りの少女』は、19世紀後半に書かれた。それから130年を経た今、子供たちが置かれている状況は。

小  説

◆銀河

目が不自由な青年の一年にわたる恋の物語 (中編小説)

◆洋の夏休み

洋は夏休み、とある山深い温泉郷にマッサージのアルバイトに出かけた。(中編小説)

◆海と摩天楼

東京・横浜を舞台に、学究と政治の世界にくり広げられる愛と野望の物語。(長編ミステリー小説)

◆白鳥たちは夜に歌う

癌病棟に集う人々の愛と死の物語。連載第1〜8回(長編小説)

◆冬のバラ

祥子の家の庭には、四季咲きのバラがあった。若い専業主婦の惑いと行動の填末。(短編小説)

◆真実

職場でハラスメントを受けていた美咲は、とある法律事務所に相談に赴いた。しかし…。(短編小説)

春夏秋冬

 一人の入居者の目を通して描いた特別養護老人ホーム「楽々園」の春夏秋冬。(長編小説)

メッセージ

あなたのやさしさが、私たちに安心と元気を与えてくれます!

◆かけがえのない言葉

イマジネーションとクリエーションのツールとしての言葉。視覚障害者にとって、言葉はかけがえのないものです。

◆心のバリアフリー化を進めよう

街のバリアフリー化が進む中で、いちばん大切なのは、街に住む人々の心のバリアフリー化です。


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